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駅のプラットホームに立ち、電車の往来を眺めてみる。複数の電車が駅構内に入ってきては発車する。行き交う列車の下には幾本もの線路が地を這い、時には交差し、枝分かれしながら目的の地へと伸びている。その線路と線路の交差部分に刻まれた““DAIDO”のマーク。鉄道の効率的な運行を、安全にしかも優れたコストパフォーマンスで実現するための仕掛けが、このマークとともに分岐部にある。
鉄道における分岐部は、最も脱線等のトラブルが起こりやすく、そのため分岐器には耐衝撃性・耐磨耗性・耐久性のすべてにおいて厳しい要求が課せられる。その高レベルな期待の声に応える分岐器の要となるのが“マンガンクロッシング”である。
大同特殊鋼は創業まもなくからマンガンクロッシングの製造を手がけ、鉄道の普及とともにそのシェアを延ばしてきた。2002年、その歴史を大同キャスティングスに移して後もシェアは低下することなく、国内シェア80%、新幹線用においては100%という圧倒的なシェアを誇っている。今回は、高い信頼性と品質によって鉄道の発展を支える “マンガンクロッシング”の長きにわたる歴史と活躍の軌跡を追う。 |
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深夜、辺りが静寂と闇に包まれる中、男達は線路の上に集まる。暗闇の中、足元を照らし、点検作業や新たなレールの取り付け作業を行う男達は、列車の安全走行と快適な乗り心地を実現し、人々の足となる鉄道を支えていた。作業は電車のダイヤに支障をきたさぬよう深夜から早朝の限られた時間で行われるのが常である。線路の状態を細部にわたり調査する者、部品の取り付け作業にかかる者、レールの使用状況や今後の計画を関係者に説明する者…。それらの姿の中に、“Mr.マンガンクロッシング”の異名をとる男がいた。分岐器の要、“マンガンクロッシング”の設計から設置の指示まで一切に携わり、入社以来一筋にクロッシングに力を注ぐ永廣である。
永廣の手がけるマンガンクロッシングとは、鋳造により一体成形で製造される分岐器のパーツである。材料であるマンガン鋼は、鉄以外に炭素1%、マンガン13%を含むだけのシンプルな材質だが、非常に靭性や耐磨耗性に優れており、列車が高速で線路の交差部を通過するという苛酷な使用条件下で、その性能を遺憾なく発揮し列車のスムーズな走行を支えている。大同のマンガンクロッシングは、その優れた品質と性能が認められ、現在あらゆる線路、鉄道で採用され、大同を代表する製品の一つとなっている。永廣は1977年よりクロッシングに携わり、その後も拡大を続ける需要に応え、名古屋工場長となった現在も多忙を極める日々を送っている。 |
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▲ 日本の大動脈、新幹線を支える大同のクロッシング |
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ここで、マンガンクロッシングの歴史を紐解いてみる。1925年に熱田工場で開発を開始し、同年、記念すべき試作第一号が鉄道省へ納入されている。その後、各市電への納入、国鉄での正式採用による在来線への本格的な納入など、順調に鉄道の発展とともに歩んできたマンガンクロッシングは、日本が世界に誇る超特急鉄道「新幹線」の登場により一つの大きな転機を迎える。
新幹線の場合、在来線に比べ列車の運行速度が速いため、当然、分岐部を通過する速度も高速化する必要がある。これを満たしスムーズな分岐を行い、かつ快適な乗り心地を実現するために、従来よりも大型で高機能なクロッシングが必要とされた。
そのため、大同では新幹線の開業に先駆けて新たなクロッシングの製造が開始された。製造当初は品質に関するトラブルも発生したが、国鉄技術陣や大同中央研究所等のバックアップを得て、一つずつ問題を解決していった。そして、この時行った諸研究、調査がマンガンクロッシングの製造技術を飛躍的に進歩させ、従来のものを凌ぐ新たなクロッシング「ノーズ可動クロッシング」として結実したのである。
進化した大同のクロッシングは、新幹線の分岐部に独占採用され、その後も確かな走りを支え続けており、そのシェアは創業以来100%を維持し続けている。つまり日本の大動脈ともいえる新幹線の分岐部には、 すべて“DAIDO”の文字が刻まれているのである。 |
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